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ベスト8ならずも、心に残る2018年の日本代表


残念ながら日本の2018年ワールドカップはタイムアップとなりました。
ボールはこちらに転がり掛けベスト8の扉に手を掛けましたが、最後に向こうに転がってしまい開く事はできませんでした。
しかし、この4試合、結果的には1勝1分け2敗でしたが、日本代表の冒険にワクワクさせて貰いました。
もっとこの日本代表の試合を見たかったですね。
2018年の日本代表、心に残る代表になりました。
一夜明けて、今朝、イングランドがPK戦でコロンビアを下しベスト8が出揃いました。
一方、長谷部選手の代表引退のニュースも伝わってきていますが、自分なりにベルギー戦を振り返って見ます。


嬉しかった原口元気のゴール

僕は小学生の頃から、日本サッカーリーグの三菱重工(後に三菱自動車)を応援してきました。日本サッカーリーグがプロ化してJリーグが発足する時に、三菱自動車は浦和レッドダイヤモンズとして参加する事になり、浦和レッズがマイクラブになりました。三菱重工から数えて今年で50年です。
2005年の横浜Fマリノスとのアウエー戦の前座に、浦和と横浜のジュニアユースの試合が行われました。この試合で浦和の背番号14の少年に目を奪われました。背番号8番と7番も気になりましたが、14番のゴールに向かうドリブルとシュートに、惚れ込んでしまったのです。早速サイトで調べると、原口元気中学2年生でした。そして8は山田直輝。7は高橋峻希で二人は中学3年生でした。
熊谷市出身で、江南南サッカー少年団で全日本少年サッカー大会に優勝、全日本少年フットサル大会決勝では6ゴール7アシストの大活躍、この様子はYouTubeで見られました。
それから、トップチームを見るのと同時に、僕が2007年から浦和エリアに住むようになったので、ユースにも注目して試合を見に行きました。
2008年、原口が高校2年の時に、高円宮杯全日本ユースサッカー選手権大会で優勝します。この時、既にトップチームに登録され、ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)に出場し、バイエルンミュンヘンからのオファーもある等、浦和ではその才能を開き始めていた時期です。この時の大会には、大迫や宇佐美も出場していました。準々決勝では大迫擁する鹿児島城西高校と対戦。鹿児島城西高校はベスト16の試合でガンバ大阪ユースに、大迫のハットトリックで勝ち抜いてきました。メディア的に大迫は大変注目されていましたが、レッズユースは大迫を完封。そして、2−0でリードしていた試合終了間際、「もう、この時間ならやってもいいよね?」という感じで、ゴール前で2〜3人を個人技でかわして原口がゴール。「大迫、いるの?」と言うメッセージにも見えるようなプレーでした。
そして何よりも心に残るのは、準決勝の岡山作陽高校との延長、ゴールやや右30mくらいのシュートを、ズドンと決めたのです。この迫力には度肝を抜かれました。
その後もプロの道を歩んで行きますが、素晴らしいプレーの反面、精神的に大人になりきれず、キレて後輩を蹴り上げてけがを負わせたり、素行面での問題が浮き彫りになり、オリンピック代表から外れたりと、才能を生かせない時がありました。
ドイツに移籍し結婚してから、精神的な成長を見せ、そのプレースタイルも大きく変化しました。ワールドカップ予選の4試合連続ゴールで注目を浴びましたが、それよりも献身的な守備が評価されたのです。「俺様」だった原口、魅力でもあり欠点でもあったのですが、それが献身的な守備で評価されるようになるとは、思いもよりませんでした。それだけに、ゴールを奪うと言う本来の良さで、ギラリと光って欲しいと思っていました。
しかし、このワールドカップで任されたのは右サイド。本来の左サイドには乾が入り、カットインからゴールを奪います。それは、原口のお得意コースでもあります。
右サイドからカットインをしましたが、左足のシュートは右足ほどの迫力はありませんでした。こうなると、右で打てるのはスルーパスで抜け出すか、作陽高校戦のようなこぼれ球かなと思って見ていました。
そのチャンスが、後半開始早々に生まれました。
ベルギーのスリーバックの間を抜くと言うのは、ゲームプランにあったと思います。
柴崎のスルーパスに抜け出した原口、シュートコースを絞られたかなと思った瞬間に切り返しのフェイントをかけて見事にゴール!
あの中学生だった原口が、ワールドカップで先制ゴールを奪ったのです。
もちろん、小学生時代から知っている方もいっぱいいると思いますが、僕もやんちゃだった我が子が立派になってゴールを決めてくれたと言う感覚に浸りました。

タイムアップの笛は、次の試合へのキックオフの笛。

試合は、乾が2点目を決めて思わぬ2−0とリード。そして、本気でゴールを取りに来たベルギーとの、まさに真剣勝負で3失点で敗れました。
ただ、3−0になりそうなシーンもあり、2−2からも決勝ゴールが決まりそうなシーンもありました。
西野監督は試合後の会見で、「前回の敗退、そして過去2回のベスト16の敗退を踏まえて準備したけれど届かなかった。」と話されていました。このような考え方は、ハリルホジッチ氏にあったかなと言うポイントだと思います。或いは、過去を踏まえずにも監督の技量として、身に付けているのかもしれませんが、それは見れなかったので検証のしようがありません。
ただ、ドーハの悲劇がなければ、ポーランド戦で悲劇を生んだかもしれません。そして、今回の批判を元に、次はもっと上手く時間を稼げるようになれるでのしょう。過去の敗退があったから、メンバーを6人変えてコンディションを整えました。しかし、ベルギーは9人変えることができたのです。2−0での終わらせ方も、結果的に稚拙だったと言えるでしょう。このような面のベースアップがまだまだ日本には必要だと言うことだと思います。そのような課題を、次回に向けて解決していく。海外でプレーする選手たちにはもっと上の次元での経験を、Jリーグもどのように引き上げていくか、4年後にに向けて積み上げて行かなければなりません。
1964年の東京オリンピック、日本サッカーは予選リーグでアルゼンチンを破り決勝トーナメントに進出するも、一回戦で敗れ順位決定戦でもあのオシムさんも選手でいたユーゴに敗れました。その時の日本代表のコーチで「日本サッカーの父」といわれる故デットマール・クラマーさんは、大会を終えた日本の選手にこう言われました。
「タイムアップの笛は、次の試合へのキックオフの笛である」と。

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