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死ぬまで聴くぞ!僕的日本のAOR選 Vol.2 加藤和彦

1年半のブランクを経て「死ぬまで聞くぞ!僕的日本のAOR選」をお届けします。
ブランクは長いですが、まだVol.2です。
今回は、私の音楽リスニング人生に子供の頃から関わっているお二人、加藤和彦と安井かずみの共作、1983年発表の「あの頃、マリー・ローランサン」をご紹介します。
死ぬまで聴ける、良質の一枚です。(文中敬称略)

印象的だった加藤和彦との出会い

加藤和彦との出会いは、幼い僕には印象的すぎました。
グループ・サウンズのスパイダースのデビューが1965年、1966年にはあのビートルズが来日し武道館でライブが行われ、世の中は言ってみればロックバンドブームだったわけです。
その中に突如現れたのがフォーククルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」でした。
リリースは1967年の12月25日ですから、実際は1968年に流行ったんでしょうね。
当時のサブカルチャーを表す言葉でもあった「アンラーグラウンド」を略して、「アングラソング」と言われてました。そして、「イムジン河」の発売と放送禁止を経て、「悲しくてやりきれない」とアングラからフォークソングへと導いてくれたのが、フォーククルセイダーズでした。
その後、70年日米安保反対の学生運動が繰り広げられていた中、新宿西口フォークゲリラが話題となり、フォークソングにネガティブなイメージを持ちながらも、流行歌としてのフォークソングに触れていました。
僕の年代で言えば、小学生高学年はグループ・サウンズ、中学生時代はアメリカンポップとフォークソングという感じだったと思います。

この「帰ってきたヨッパライ」、改めて聴くと凄いですよね。
回転数を変えて声を変えるとか、間奏にビートルズの曲をパロって入れるとか、台詞やお経、最後はエリーゼのためにまで入れています。
後にスクラッチやサンプリングを駆使していろんな曲を取り入れ、そこにラップを乗せたヒップホップの原型なのではと思う程です。
そうです。それが「加藤和彦」の音楽センスだったんですね。
「帰ってきたヨッパライ」当時はアングラと言うよりはコミックソングな面に惹かれた子供だったのですが、大人になるに連れて「加藤和彦」の示す音楽センスをどこか辿っていくことになったのです。

常に音楽的に時代をリードしてきた加藤和彦

「フォーク・クルセダーズ」を解散した後、1971年にフォークルのメンバーだった「北山修」とのデュオで名曲「あの素晴らしい愛をもう一度」をリリース、CMソングとなった「家をつくるなら」を含むアルバム「スーパー・ガス」などフォークソング路線にいたかと思ったら、同年後半には「サディスティックミカバンド」を結成して、ロックンロールからグラムロック・レゲエ・プログレからR&Bなどのエッセンスを散りばめたアルバムをリリースします。
出で立ちもグラムロック系になってましたね。
1975年に加藤ミカとの離婚と共にバンドも解散し、1976年にはポップ系のソロアルバム「それから先のことは・・・」を発表、このアルバムは、安井かずみが詞を担当した初めてのアルバムです。
1979年の「パパ・ヘミングウェイ」から始まる「うたかたのオペラ」「ベル・エキセントリック」のヨーロッパ三部作を発表しました。
この三部作は、テーマのゆかりの地へ作詞家の安井かずみとバックミュージシャン達とともに赴き、合宿作成すると言うスタイルの制作方法が取られました。
そして、1983年、ピーター・フォンダが主演した村上龍作の小説を村上龍自身が監督した映画「だいじょうぶマイ・フレンド」の音楽を担当し、日本アカデミー賞の優秀音楽賞を獲得しました。
その年にリリースされたアルバムが今日紹介する「あの頃、マリー・ローランサン」です。

ポップな名盤「あの頃、マリー・ローランサン」

加藤和彦と安井かずみの共作は、テーマを決めてアルバムを構築していくスタイル、コンセプト・アルバムと呼ばれる手法がとられていたと感じます。
アルバム一枚ごとに作風が変わっていました。
ヨーロッパ三部作は強くそれを感じていました。
なので、リリース当時二十歳そこそこの僕にはちょっと難しい一面もありました。
そこに登場したのが「あの頃、マリー・ローランサン」です。
舞台は東京、音楽離れしていく大人たちでも聴ける良い意味でのBGMがコンセプトだったそうです。
「パパ・ヘミングウェイ」に納められている「LAZY GIRL」が大好きだった僕は、全曲この路線のアルバムを望んでいたので、このポップ感と大人の雰囲気には一気にはまりました。
しかし、聴いた当時は、東京と言うよりはやはりパリやニューヨークの生活を想像していました。
「模造真珠の指輪」より、本物が、いやもっと高価な宝石が売れていた時代、バブルの入り口にいた東京があの歌の雰囲気を漂わせるには、少し時間が必要でした。

幼少期から接していた安井かずみの詞の世界

このアルバムは曲とともにその詩の世界が素晴らしいのですが、1977年に加藤和彦と結婚し、以降共作をたくさん残した作詞家の安井かずみにも少し触れておきます。
私の中では、加藤和彦と結婚後の印象の方が強くあります。
竹内まりあの「不思議なピーチパイ」は二人の共作でした。
しかし、結婚前の安井かずみの詞には多く触れているんですね。
「私の城下町」「危険な二人」「赤い風船」「草原の輝き」「よろしく哀愁」「激しい恋」「小さな恋」など、中学高校時代のヒット曲もいっぱいです。
さらに、「ドナドナ」や補作ですが「花はどこに行った」など、訳詞も多く手がけられています。
改めて知りましたが、「宇宙少年ソラン」の主題歌も、作詞されてたんですね。
1965年、加藤和彦より先に出会っていたことになります。

あの頃の音楽職人たちの匠を感じる

「あの頃、マリー・ローランサン」に話を戻しましょう。
改めてWikipediaで調べると、このアルバムはほぼワンテイクでレコーディングされているそうです。
無限にトラックのあるデジタルレコーディングの時代ではありません。
それでも24トラックマルチレコーディングはあったのですが、トラックのテープ幅が広くなる16トラックの機器を使って音を良くしたそうです。
ワンテイクの理由はそこにあったのかもしれません。
ヴォーカルも仮歌で入れたものが、結果的に採用されたそうで、メロディの合間にエッセンス的に聞こえてくる音も、重ねたものではなくワンテイクというのは、さすが匠の時代ですね。
加藤和彦節のヴォーカルが、ワンテイクの中で歌い上げた方が良かったと言うのも、わかる気もします。
音楽職人たちのコラボレーションのなせる技です。
加えて歌詞の変更も無かったわけで、安井かずみの詩の完成度も高かったと言うことです。
まるで映画のような歌詞は、コンビを組んでからよく知っていたのですが、その情景表現の心への浸透度は、二人の作品の中でも「あの頃、マリー・ローランサン」が一番馴染みやすく感じます。
それでも、クスクスとか、そもそもマリー・ローランサンもですが、インターネット検索のなかった時代では、その知識がなければ簡単に得体を知ることが出来ない言葉も散りばめられていました。
ちなみに、リリースされた1983年はマリー・ローランサンの生誕100年の年でした。

全ての曲が素晴らしいのですが、初めて聞いた時から僕の一番のお気に入りは、バラードの王道とも言える「タクシーと指輪とレストラン」。
加藤和彦もこういう曲を、素敵に作って唄ってしまうんだなと感じ入りました。
この曲だけ、ドラムスに村上ポンタ修一を起用しています。
ブラシからリムショット、そして、あのタイミングでのフロアタムの入れ方・響かせ方は村上修一ならではでしょう。

ヘッドフォンで音量を上げて楽しむ音楽記録

昔聴いたことのある人も、初めての方も、加藤和彦と安井かずみ、二人の才能と日本のミュージシャン達・エンジニア達のコラボレーションが生み出した素晴らしい記録を、ゆっくり楽しんでみてください。
出来れば密閉型のヘッドフォンで音量を上げて、音楽職人達の音を拾って聴いてみてください。
今は別の世界へ行ってしまった二人ですが、きっと素敵な曲をたくさん作っていることでしょう。
いつか、聴けることが楽しみでもあります。

 
 
 
 
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