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Jリーグ浦和レッズの阿部勇樹選手の引退セレモニーが、11月27日埼玉スタジアムでのホーム最終戦後に行われました。
2007年にジェフ千葉から浦和に移籍して15年、途中1年半はイングランドのレスターシティーに在籍していましたが、13年半のシーズンを一緒に闘ってきた阿部勇樹選手、阿部ちゃんに感謝のコラムを書きたいと思います。
闘志を秘めて戦う闘将
阿部選手がプロのキャリアを歩み出したのは1998年8月5日、当時のJリーグ最年少記録だった16歳と333日でのデビューでした。
ジェフ時代、何度も対戦していたと思いますが、守備系の選手ですから、良い選手と言う感じはあっても、「阿部にやられた」と言う記憶が残っている訳でもありませんでした。
なので、2007年、阿部選手が浦和に移籍した時も、「ジェフがよく出したな」と言う思いはありましたが、素直に受け入れられました。
2007年、アジアチャンピオンズリーグでの奮闘
そうは言っても、移籍選手が自クラブのメンバーの一人として受け入れる時と言うものがあると思います。
移籍して来たら仲間なんだから、掛け値無く応援するのがクラブ愛だと言われる方もいます。
僕は、移籍した選手が大物な時ほど、自分の中に入り込んだなと思う試合があります。
阿部選手の場合は、2007年10月14日のアジアチャンピオンズリーグ(以下ACL)準決勝城南一和戦です。
この試合は、アウエー・ホームともに2−2の引き分けで、延長も無得点で終わりPK戦での決着となりました。
僕の53年のサッカー観戦の中で一番記憶に残る、まさに死闘でした。
その中で、闘莉王選手も山田暢久選手も怪我で交代した延長戦、何度も身を投げ出しピンチを救い、倒されては立ち上がり闘い続けたのは阿部選手でした。
PK戦では、脚を引き摺りながら、スポットに向かいキッチリと決めました。
歩いて戻る途中で気づき、またも脚を引き摺りながら走る姿に、阿部選手のフェアな姿勢が伝わってきました。
そして、日曜日に放送された「やべっちFC」の特集の中で、試合を終え場内を一周してきた選手を、怪我をした闘莉王選手がトルシエ階段のところで迎え入れているシーンがありました。
戻って来た阿部選手は握手をすると、階段に倒れるように座りこんで一言、「もう歩けないよ」。
そこまで闘ってくれた選手をリスペクトしない訳はありません。
ワールドカップ南アフリカ大会での健闘
阿部選手の代表歴は、各年代別の代表も経験していますが、U-23日本代表として2004年のアテネオリンピックに出場しています。
2005年、ジーコ監督の元、日本代表として初キャップを得ましたが、2006年のワールドカップドイツ大会は選出されませんでした。
ドイツ大会後、代表監督がイビチャ・オシム監督に変わってから、愛弟子の阿部選手は代表に定着していきます。
そのオシム監督が脳梗塞で倒れ岡田武史監督に変わっても選出され、2010年の南アフリカワールドカップに参加しました。
当初のポジションはセンターバックで、闘莉王選手とボンバー中澤佑二選手がセンターバックのレギュラー格で、阿部選手は控えでした。
大会前は「世界をあっと言わせる」と豪語した岡田監督でしたが、大会に入ると阿部選手をアンカーに置いた4-1-4-1という守備的フォーメーションに変更され、日本があっと言ってしまいました。
しかし、このアンカー阿部が効きました。
日本は決勝に進出したオランダには敗れましたが、カメルーンとデンマークを破り決勝トーナメントに進出。
ラウンド16ではパラグアイと延長で0−0、PKで敗戦となりましたが、充分な結果を見せました。
阿部選手はパラグアイ戦で交代するまで全て出場して、4試合で2失点に抑える健闘を見せてくれました。
闘莉王選手はレギュラーで見れて、阿部選手は交代で出るくらいかなと思っていただけに、嬉しい活躍でした。
先日、岡田さんが「ワールドカップでは君に助けられました」と、最上級のコメントを寄せていました。
改めて思えば、岡田さんは古河電工の選手でしたから、阿部選手の先輩ですね。
目立たないけれど、チームの要に
ワールドカップ後にイングランドのレスターシティに移籍し、1年半でしたが59試合に出場しました。
そして、2012年には浦和に復帰、合計14年プレーしてくれました。
ディフェンダーとして、闘志丸出しで守るというよりは、目立たないけれど要所は締める、いつも闘ってくれているチームの要です。
でも近年は、出場機会が減った中、「さすがに阿部ちゃんも落ちたかな?」と感じる場面も多くありました。
そんな阿部選手が、今年、リカルド・ロドリゲス新監督を迎えた中、キャプテンとして初戦に先発しました。
「落ちた」と思ってごめんなさいと思う往年のプレーを見せ、今シーズン浦和のファーストゴールも決めました。
その後の試合でも、PKと直接フリーキックを決め3得点を挙げ、阿部選手見事な復活です。
多分、ロドリゲス監督の元、試合状況による選手の立ち位置などプレーが整理されたからだと思います。
そして、オシム監督、フィンケ監督やミハイロ・ペトロビッチ監督などの指導の元、養われた阿部選手の戦術理解能力で、いち早くロドリゲス監督の戦術を理解したからではないかと思います。
残念ながら負傷で1年活躍することも、ホーム最終戦に出場することもままなりませんでしたが、最後シーズン、その勇壮は魅せてもらいました。
指導者への道
引退会見でもセレモニーのスピーチでも、今後は指導者への道を歩むことを話してくれました。
色々な監督に指導してもらった恩返しと言う言葉はいかにも阿部選手らしいですが、とりあえずの狙いはJリーグの監督でしょうか?
目前で逃したリーグ優勝
2007年、阿部選手の加入した浦和はACLを獲得しましたが、一時は2位に勝ち点10の差をつけていたJリーグは優勝できませんでした。
最下位の横浜FCに勝てば優勝だった最終戦、サイドライン際で前を向こうとした阿部選手が三浦和良選手にボールを奪われてしまい、そこからのクロスから決勝ゴールを奪われてしまい、2位に終わりました。
ACLも国内の試合もほぼ同じメンバーで闘った負傷や疲労が、チーム力を落とし、阿部選手のコンディションにも影響したと思いますが、あのボールを奪われた悔しさは刻まれていることと思います。
2014年も終盤の失速で逆転され優勝を逃しました。
2015年は2ステージ制が復活し、1stステージで優勝するも、チャンピオンシップは準決勝で敗退。
更に2016年は年間最高勝ち点で臨んだチャンピオンシップ決勝戦で敗れ2位と、4度もJリーグ優勝を目前で逃してきました。
2017年に2度目のACL優勝を果たしまし、アジアチャンピオンには2度輝くも、日本のチャンピオンとは縁の無かった阿部選手でした。
監督でJ1優勝を獲ってほしい
浦和レッズは契約満了により今季限りでの工藤輝央コーチの退任を発表しました。
工藤コーチの労をねぎらうとともに、タイミングが良いなと思うのは、僕だけではないと思います。
いち早くロドリゲス監督のメソッドを体得した阿部選手です。
来期はコーチとして浦和に残るかもしれません。
阿部選手の功績を思えば、J1で監督のできるS級ライセンスを取得するまで、浦和がコーチ育成することを期待します。
そして、願わくば浦和で指揮を取って欲しいですが、ジェフに帰っても良いし他のクラブでも良いので、選手の時代に獲れなかったJ1のリーグチャンピオンを監督として掴む日が来ることを心待ちにしています。
阿部選手のこれまでの活躍に感謝し、新たなステージが栄光に輝くことをお祈りします。
阿部ちゃん、ありがとう!お疲れ様!
3年計画2年目、選手の構成も大きく入れ替わった今年を振り返るのなら、これです。